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忠岡村の地名由来

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忠岡村の地名由来については、次のような伝説が残されてます。

源平争乱の頃、平家一族を西国に追い落として入京した木曽義仲は、家臣今井兼平の子兼滋に平 忠度の追求を命じた。と

忠度は、忠盛りの六男、清盛の一番したの弟になり、平氏の有力武将の一人だった。

寿永二年(1183)七月十一日、紀州街道大津川のたもとで忠度の子、忠行は形勢不利な父に再挙を期することが誠忠の勇であると説き紀伊国に出奔(姿を消す)が

追撃してきた今川兼滋の軍勢と合戦に及び自ら大津川南岸に付近の民家の戸板を並べて防壁の陣として応戦するも苦戦の上、痛手を負い今の忠岡神社がある場所で傷を癒すが介抱叶わず命を落とした。

村人はこれを憐れんで屍を埋葬し丘を築いて『平 忠行が手負い身を癒した丘』「忠行の丘」と呼び、それが忠岡と転訛したと云うのである(下田健夫「忠岡村史」参考)。


以上は伝説であり歴史的に擬した内容を備えているが事実とは合致しない。


たとえば平氏の都落ちは寿永二年七月二十五日、木曽義仲は家臣と共に入京するは二十八日の事であり、大津川で合戦が行われた筈がない。



一方、忠度は翌寿永三年2月、通盛・経竣・知章・敦盛らとともに「一ノ谷合戦」で討たれたことが知られ、それまでの間に子、忠行が紀伊に下った形跡はみつからない。

忠岡の伝説における平 忠度・忠行父子の別れは忠君愛国の思想は明治年間の初期、志気養成が急がれた頃、この地域では、これが伝説化された可能性が大きい。 


江戸時代に刊行された地誌類に「忠行の丘」について触れたものは皆無である。

但し、明治十四年(一八八一)紀州街道が国道二十九号線となり大津川に橋が架けられたとき、忠行が戸板を並べて盾にしたとして、

その橋が「縦並橋」と命名された事実はその頃、既にこの伝説が地域的に広く受容されて居たことを示している。

地名の由来は多くの場合、後世のこじつけであり、忠岡にしてもその例外では無かったようです。


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尚、忠岡神社では12月1日は、冬宮祭(ふゆみやさい)です。昔は夜店も出てたんですが今はどうなんでしょう!
また、年越大祓(としこしおおはらい)の受付が始まります。
一年間に知らず知らずのうちに犯してしまった罪・つもりつもった穢れ(けがれ)、もろもろの災難などをお祓いし、清らかな心身を取り戻して、新たな年を迎える伝統行事です。
12月31日(大晦日)の深夜に、年越大祓を齋行します。~だって^^
                                         著 俺

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